夏編-3 回想

地平線が鮮やかな紫色のグラデーションに染まっていく。海岸が見える高級別荘地の一角、そこに令二の別荘はあった。このルシアとの旅行だけのために購入したものだった。令二はその庭のプールサイドでサマーベッドに寝そべり一時の休憩を取っていた。昼間の欲情にまみれた狂宴が嘘のような静かなひと時。

疲れているのはルシアも一緒なはずだが、案外タフで別荘の台所で夕食を作っている。料理は運ばせると言ったのだが、

令二さんは偏食だから好きなものしか頼まない。それじゃ健康に悪いですよ!

そう言って材料と台所用品を用意して自分で作り始めたのだ。ルシアが料理を作るのはこれが初めてではなく、しばらく前から情事の後などにルシアが令二の偏食を心配して食事を作るようになっていた。まるで妻のように・・

「妻か・・。」令二の中に苦い思い出が蘇る。かって令二には妻がいた。20代で企業し青年実業家と称賛される程度の成功を収めていた。妻からは学生時代からの付き合いで、一生この女性を愛していくことに何の疑問もいだかなかった。

しかしある日、令二の会社は敵対買収を受け創業者である令二は解任された。自分が所有していたはずの株は知らぬ間に全て売却されていた。同じタイミングで妻からDVで訴えられ巧妙に用意された偽の証拠と、「日常的に令二が妻に暴力を奮っていた」という令二の友人の証言もあり裁判で負け、住居を含めたほぼ全財産を慰謝料として取られ無一文となった。

令二の友人。副社長でもあり妻と同じく学生時代から令二の親友であった男。令二が社長を追放された後は、買収企業のもとで新たな社長としてトップに立った。妻と親友最も信頼する二人の裏切りに当時の令二はうろたえることしかできなかった。

友人を問い詰めようと、友人宅に忍び込んみ、令二がそこで見たのは友人と妻が交わる姿だった。令二は全てを理解した。二人共グルだったのだと。二人の前に飛び出した令二だったが、あらゆる感情が一斉に湧き上がってきて、その場で嘔吐してしまう。そして驚愕する二人の前から走り去った。その後のことは令二もよく覚えていない。既に住む場所も失い、もともと親家族のいない令二は失意の中、ホームレスとして街を彷徨うことになった。


ある真冬の日、凍えるような雨の中に令二は身を投げだした。「もう終わってしまえ」と。
地面にうつ伏せたまま、顔を伝って流れるのが雨なのか自分の涙なのかわからなかった。

大丈夫ですか?

意識が消えかけた時、不意に女性の声がした。答える間も無く、令二の上半身が地面から抱き起こされた。顔のすぐ近くに美しい少女の姿があった。一瞬見惚れるも令二は彼女の助けを拒絶した。放っておいてくれと。しかしその少女はその言葉に応じることなく、令二の体を抱き起こそうとする。

ホームレスの支援団体を知っているんです。
近くですから一緒に行きましょう。

そう言って拒絶を許そうとはしない。少女の制服も令二の汚れでベッタリと濡れている。ましてこの凍るような雨の中、一所懸命に自分を助けようとする少女の姿に令二は心動かされ、少女についていき支援団体の世話になった。低体温症になりかけてた令二は団体を通じて病院に運ばれることになった。その直前にまたあの少女が令二のところにやって来て微笑みながらこう告げた。

生きてるんですもの。きっとやり直せますよ。

その言葉に令二は涙が止まらなくなり、子供のように泣いた。そしてこの少女の笑顔を忘れることは一生ないだろうと思った。


それから令二は再起に向けて動き出した。昔のツテを頼り商売を始めた。まっとうな手段では這い上がるのに時間がかかる、そう考えた令二は裏社会に自分のビジネスマンとしての腕を売りこんだ。グレーゾーン、あるいは違法な商売のコンサルタントとして令二は活躍した。何度も修羅場をくぐり、命に危険が及ぶようなハイリスク・ハイリターンの取引も成功させ、わずか数年で青年実業家の時以上の財産を築いた。

再起した令二には目的があった。元友人と元妻への復讐である。あの後、二人は結婚していた。令二から奪った財産と会社で順風満帆の人生を送っていた。探偵を雇って調査したところ二人の関係は学生時代から続いていた。自分だけがずっと知らずにいたのだ。「死ぬよりも酷い目に合わせてやる。」そのための復讐の準備を着々と整えつつあった。

しかし思わぬことが起こる。復讐するはずだった二人が死んだのだ。交通事故であった。やり場のない感情だけが令二の中に残った。しかし自分の中での一つの区切りが付いたと考え、令二は前に進むことにした。

そして令二が行ったのは、自分を助けてくれた者達への恩返しだった。再起の時に世話になった商売関係者、入院した病院、ホームレス支援団体、そしてあの少女。再起のため時に泥水をすするような思いもした中で、あの笑顔を思い出すたび心が安らいだ。

あの子は天使なのかもしれない。そんな年甲斐のない妄想すらしてしまうほどに、令二にとってあの少女の存在は大きいものだった。


ホームレス支援団体に多額の寄付をした際に代表者である老婆からその女性の名前を知ることができた。

ああ、ルシアちゃんね。

当時は高校生でボランティア活動としてこの団体に手伝いに来ていたとのことだった。名前と特徴的な容姿もあり、すぐにその少女の身元を調べることができた。良家のお嬢様であり高校卒業と同時に親の決めた許嫁と結婚しているということも。

「既婚」ということは令二にとって少なからずショックだった。独りよがりな思い込みだが令二の中で、あの少女は汚れなき天使のような存在であったからだ。それでも令二はそんな感情は抑え込み、ルシアにあの時の礼をしようと彼女の家に赴いたのだ。

ルシアの自宅マンションの出口近く、道路に停めた車内で令二が待っていると、彼女と一緒に夫らしき男が出てくる。車を開けてルシアに声をかけようとしたその時

ルシアと夫がキスをしたのだ。そのまま夫はルシアの胸を弄る。戯れに触ったのかもしれない。遠くから何か言ってるが聞こえない。しかしルシアの蕩けた顔を見た時、ルシアの顔が元妻とダブって見えた。あの日、友人と交わりながら喘いでいた妻と。天使だと信じていた存在が娼婦のような笑顔で笑っている。令二はドス黒い感情が湧き上がってくるのを感じた。

お前も俺を裏切るのか・・・

見当違いな憎しみであった、しかし妻の死とともに行き場を失っていた復讐の怒りが令二を狂わせていた。

それから数ヶ月後、ルシアは令二の仕掛けた罠にハマり、凌辱され、調教され、ついには夫と別れて令二のモノになると宣言するまでに身も心も令二に征服されていた。

とっくにルシアを離婚させ自分のモノにすることもできた。しかしこれまでそれをしなかったのは、人妻としてルシアを辱め、旦那を裏切らせることに愉悦を感じていたからだった。元友人と元妻に対する復讐、それは元妻を性奴として調教し、今の夫である元友人の前で見せつけ絶望を与えた上で、財産も命も全て奪ってやるというものだった。しかし復讐すべき対象が消えた今、その復讐の執念は歪んだ形でルシア達夫婦に向けられた。
ルシアに夫を裏切らせている時、令二は元妻と元友人に復讐を果たしているような愉悦を覚えていた。


令二は小さな箱を開ける。そこには真新しい結婚指輪が輝いていた。
もうこの歪んだ関係も終わりにしよう。
この旅行の最後にルシアにこれを渡し、ルシアと二人で新たな人生を歩きはじめよう。
そう令二は思っていた。

令二さーん!ご飯できましたよー!

リビングからルシアの呼ぶ声がする。

ああ、今行くぜ。奥さん。

ふふふ、奥さんか‥もうクセになっちまったなこの呼び方。
それもこの旅行が終わるまでか。
それまでもう少し遊ばせてもらうぜ。「奥さん」

しかし令二の思い描く、ルシアとの二人の未来は決して訪れることはなかった。